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山 名
久松山(263m) 鳥取県鳥取市
登山日 2018年6月3日(日) 晴れ
西麓より望む久松山
参加者 娘婿
コース 久松公園前縦列駐車場(8時30分)〜鳥居のある登山口(8:40)〜五合目(8:50)〜九合目(9:00)〜(9:10)久松山(9:40)〜井戸跡(10:05)〜トラバース道へ(10:18)〜天球丸跡(10:25)〜(10:35)久松公園前縦列駐車場 所要時間2時間5分
お弁当 午前中登山のためありません
駐車場 久松公園前の縦列駐車場(無料です)
トイレ 鳥取城跡跡に何ヶ所かあります(山中や山頂にはありません)
まとめ 少しだけ城好きの娘婿に誘われて鳥取市民憩の久松山に登りました。山城だけに山頂からの眺めは抜群でした。本レポートの鳥取城や久松山に関する説明(水色の部分)は、鳥取市教育委員会発行の冊子より引用しています。

娘の住む丸山町から久松山(きゅうしょうざん)の麓までは目と鼻の先で5分くらいで着いた。お堀端の路側帯に沿って縦列駐車場が用意されている。区画ごとに駐車できる時間が違っているので気をつけなければいけない。案内板を撮ろうとしたところデジカメの電池切れのメッセージが出たので仕方なしにスマホで撮影する。


【鳥取城の歴史・戦国時代】 鳥取城は16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。戦国時代に入り天下統一を目指す織田信長は二度にわたり羽柴秀吉を総大将とし、毛利方の最前線であった鳥取城を攻めました。秀吉は圧倒的な勢力で包囲網を敷き「兵糧攻め」を行いました。ついに吉川経家は自刃し城は開城しました。兵糧攻めの後、新たに城主となったのは、秀吉の側近として活躍した宮部継潤でした。
宝珠橋を渡った先の通り 裏御門跡への石段

【鳥取城の歴史・江戸時代】 関ヶ原合戦後には、池田長吉が入ります。しかし大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。… 鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓が与えられた。久松山の由来は松平家が久しく栄えることを願って付けられた名だと教えてもらった。
中坂稲荷神社の鳥居 登山口を入ると石段が続く

久松山は市民の憩の山らしく早朝から家族連れなど相当数のハイカーが登っていて、追い抜いたり、追い越されたりしながら急斜面に造られた石段を登っていく。

ゆっくり歩いて40分程で天守跡の山頂広場に上がった。眼下には鳥取市街が一望の下で、この地に山城が造られたのが頷ける。少々霞んでいて昨日登った那岐山や伯耆大山などの遠くの山は見えなかった。
五合目(久松中坂第権現) 久松山山頂から砂丘方面の眺め

【現在の鳥取城】大正期以降、久松公園として親しまれてきた鳥取城跡ですが、1943年の鳥取大地震によって城跡も大きな被害を受けました。翌年、旧藩主鳥取池田家は、震災の復興に立ち向かう市民を勇気づけるため、鳥取城跡を鳥取市に寄贈します。復興資金がないために寄贈したとの説もある。
三の丸下の広場 その石垣と鏡石

下山はピストンの予定だったが、山頂で出合った地元の方に案内してもらって水谷道を下ることにした。この山では本日トレラン大会が開催されていて、後方からひっきりなしにランナーが下ってくるので、その都度退避して応援する。年代的には40〜50代が多いように感じた。

さて、案内してもらったこと教えてもらったことはというと、昭和の時代に久松山ロープウェイが運行を開始したが利用客の低迷で数年で閉鎖したこと、山中には多くの縦堀・横堀があること、水谷道は安全を考慮して深く掘ってあること、井戸や炭焼き釜跡など。途中からトラバース道に入り天球丸跡に出たが、ガイドブックに載っていない道のようなので説明は省略する。
スダジイの大木


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